マッキーの歩んだ道
◆ 出生から学生時代
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昭19(1944)10月18日
 横須賀市にて生まれる。父は長野県、農家の二男坊。海軍に入隊、横須賀に配属。 母と結婚、長男として敗戦の 色濃い中、元気に誕生する。

昭26(1951)

 市立山崎小学校に入学。学業はまずまず。

昭32(1957)

 市立馬堀中学校に入学。埋めたて前の馬堀海岸が通学路。夏の海の家の賑わいがなつかしい。三年のとき埋め立てが開始される。50人1クラス、10組。馬掘中学全体で35クラスの巨大マンモス校で学ぶ。1クラス30人位が望ましい等論議されているが、大クラスは必ずしも悪ではないと確信している。

昭35(1960)

 県立横須賀高校に進学。美術部と野球部に籍を置き、文武両道を目指すも共に素質なく中途半端に終わる。勉強より、興味あるものに出会い勉学も挫折。なんとも実りなき高校生活。得たものは宝、友人の輪は際限なく広がる。

昭38(1963)

 高校時代最後、活況に湧く証券界のニュースに接し、証券マンを夢見て明治大学商学部に進学。あわせて明治大学横須賀会の活動にも参加する。学校へ行く回数は定期の元が取れないくらい。 もっぱら市内スカ会の活動に専念する。第六回のマンドリン・コンサートを仕切る。その後このコンサートは後輩達の手によって歴史を刻み、今年は第41回を数える。現在は明大横須賀会の会長として学生と一緒に駿台spiritを燈している。
◆ 秘書時代
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昭42(1964)
 学生時代体験した選挙活動。衆議院議員 小泉純也 先生(現純一郎代議士の父)の生き様に共感。卒業後、秘書となる。いまどきの秘書とは、大違い。日常の作業や運転、雑用一般を体験。政治の根幹となる人間模様の勉強。当時学んだ全てのことが今の自分を支えてくれている。

昭44(1966)

 小泉純也先生 急逝。敬愛する純也先生がガンで急逝。人生の希望を失うような大ショックを受ける。その後、ロンドンから帰国した純一郎氏が弔い合戦に出馬。懸命の努力をするも敗戦。破れた戦の厳しさを骨のずいまで感じとる。次の選挙の準備に奔走。

昭47(1969)

 小泉純一郎代議士誕生。苦節を乗り越え、念願の当選を果たす。小泉事務所を支え、活動を展開する。

昭49(1971)
 
小泉事務所から自立し、自ら政治家を目指す。
 
◆ 市議会議員時代
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昭50(1972)
 横須賀市議選に挑戦。30歳、独身で出馬。定員48人、立候補72人史上最大の大混戦。大方の予想を裏切り、当選を果たす。
本人は自身満々で出馬するも、”地バン・看バン・カバン”三バンなしの選挙は通用しないとの風評のなかでの勝利。街頭演説の数々が今だ記憶に新しい。
 
◆ 県会議員時代と参院挑戦
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昭62(1984)
 三期連続。毎回の選挙で得票をのばし、いよいよ県議会に出馬を決意。
自民党公認がとれず、四面楚歌の戦となった。 街を二分するすさまじい選挙戦を体験する。 血で血を洗うと評されたこの戦いも無事に勝ち抜く。 42歳、秘書体験のみの全く無名の男が この戦いに勝つ事が出来たのは奇跡と言われた。 その後、自民党所属の県議として、 文字通り三浦半島を代表する地方議員 の誇りを忘れず、活動を続ける。この間、地方分権にかける情熱の集大成「マリン文化都市連邦」、 「税に対する鈍敏感」を発表。大きな話題をよぶ。

平成10(1998)

 三期務めた県議から参議院神奈川選挙区から立候補、敗れる。 当時、橋本内閣は衆院で過半数を得るも参院では、−8議席。 波に乗り、国民的人気も高かった橋龍は 東京、神奈川、大阪、兵庫、愛知県といった大都市で 複数候補の擁立を決意。 選挙の後半、経済政策、税金問題で橋本政権は批判をあび、 都市では1議席も議席を取れず惨敗した。 その結果−21議席の参院での結果から 今日の連立政権の道を巡ることになった。
 
◆ 現在
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平成11(1999)
 参院選敗北のあと、自らの人生をかえりみて多くの方々と相談し、再度県議選に出馬を決意する。批判、批難、いわれなき中傷が渦巻く中、政治の原点に立ち返り「0からの出発」をスローガンに早朝駅頭キャンペーンを決意し実行する。過去7回の選挙の全てを白紙に戻しての戦いで、トップ当選を果たす。もう一度、自分に課せられた責任の重さをかみしめ政治活動を展開する。

平成12(2000)

 政治活動25年、1/4世紀を総括しさらなる飛躍を期し、 「25周年感謝の集い」を開催する。この歴史的な瞬を境に新世紀に向け、新たな出発を決意する。

平成17(2005)
 第98代神奈川県議会議長に就任。