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山本 詔一 さん
◆ 郷土史家
 ざんばら髪とエネルギー一杯につめこんだ小さな身体。文字どおり文学青年のイメージぴったりの山本詔一さん、と云うより詔ちゃんと呼んだ方がふさわしい。しかしメガネの奥の瞳はふるさとを熱愛する知性を宿している。 今、神奈川新聞にペリー来航150年を記念して50回の予定でコラムを書き、FMブルー湘南で「地域の歴史と文化コーナー」の30分番組を担当している。山本さんは浦賀で書店を営んでいる。長野県小諸から浦賀に渡り、書店を開業した。初代信濃屋佐兵衛氏から数え、7代目信濃屋店主ということになる。4代目までが佐兵衛を名乗り約200年の歴史を刻んできた。現在会員約400名の「開国史研究会」の会長としても活躍中。変化を遂げる故郷浦賀の将来に夢をかける情熱は高い。
 

牧島: 神奈川新聞のコラム、楽しみにしています。これはペリー来航との係わりで執筆を。

山本: もちろんそうです。2003年来航150年になります。日本の開国の原点ですから頑張って筆をとっています。

牧島: 開国から明治へと日本の歴史のなかで、最も激変した社会環境を生み出した横須賀ですからね。

山本: そのとおりです。製鉄所建設から造船と、近代日本の発信地でしたから。

牧島: でもペリー祭というと下田を想い出すほどで、どうも横須賀の祭りは、いま一つのような気がしますが。確かに近年、久里浜観光協会や商店街の尽力で認知はされてきましたが・・・。

山本: 残念ですね。ご指摘のとおりだと思います。

牧島: 何か問題点でも。

山本: そうですね。いくつかあると思います。まず一つとして行政のこの祭りに対する意欲があげられます。下町の街のエネルギーはすごいものがあります。次に横須賀はアメリカの基地の存在がありますね。これによって歴史表現の難しさがあったと思いますね。でもこの点は今はあまり考えない方が良いかも知れません。それと地域の課題もあります。今はペリーの上陸記念碑のある久里浜で開催されています。しかし奉行所のあったところは浦賀ですし・・・。浦賀と久里浜はとなりどおしですが、今一つ協調が難点で。こういった諸課題があったと考えています。

牧島: こうした問題は150年を機に払拭して、新しいペリー祭を創りたいですね。

山本: そのとおりです。皆が知恵と情熱を傾ければ可能ですからね。

牧島: ところでペリー来航、黒船は今では想像できないカルチャーショックを日本に与えたと思いますが。

山本: ペリー来航は黒船の偉容以外でも様々な教訓を与えています。当時のアメリカ海軍の情報収集能力は驚くべきものがあります。

牧島: 今でもすごいと思いますが、当時はどんな情報を!

山本: まずペリーは日本海域の海図をもっていた事実と、江戸が世界一の大都会であったことを知っていましたね。当時、江戸には200万〜300万人が住んでいた訳で、ニューヨークロンドン、パリより確実に大きな都だったのです。しかし、この江戸の東京湾については観音崎までしか正確に把握していなかったのです。東京湾の奥は未知の部分だったようです。ペリーの記録によると、江戸の街や山々は針葉樹の森林と思っていたようです。緯度からすれば当然で、広葉樹や緑葉樹に一番驚いたと記しています。ちょんまげや刀にはさして驚いていません。多分、予習されていたものと思われます。

牧島: 当時、植物の生態に目をむけていたとはすごいですね。

山本: それだけではありません。今でいうウェットスーツ持参でこの海で潜水し、いそぎんちゃくを採集したり、三浦半島の植物もアメリカに持ち帰っています。更にすごいのは、アメリカから持ち込んだ植物の種も提供しています。「そら豆」もペリーの贈りもののようです。

牧島: 「そら豆」がですか?

山本: でも日本も鎖国した割には優れたところもありました。ご承知のように中島三郎助が対応するのですが、通訳もちゃんといましたから。長崎通詞(つうじ)と呼ばれている人達で、オランダ人から英語を学んでいたのです。ジョン・万次郎を通訳に、という話もあったそうですが、アメリカの味方するのではないかと疑われたりして、この通詞の最初の言葉は「私はオランダ語ができる」と英語でいったりして、日本もなかなかのものでした。

牧島: それでペリーをして「日本は将来、アメリカの存在をおびやかす存在になるだろう。この国は技術革進する能力を有し、よきパートナーにもなるし、ライバルになるだろう」と予言していますね。

山本: ペリーは非常に賢明ですね。今まさに、そのとおりですから。ペリーは様々な教えを日本に示しました。代表的なものは「歩き方」です。

牧島: 「歩き方」ですか?

山本: そうです。ペリーは300名の軍隊の行進をしました。そうしたら歩き方が日本のそれと違っていたのです。

牧島: そんな馬鹿な!

山本: アメリカ軍は右手と左足、交互に前に行進したのです。

牧島: 今、私達もそうして歩いていますよ。

山本: 江戸時代まで日本人は右手、右足を前に歩いていたのです。そうしないと左腰に差した刀を右手で抜けないのです。だから右手、右足が同時に前に出す歩き方なのです。

牧島: それからどうなったのですか。

山本: アメリカ軍の行進をみてカルチャーショックを受けた日本は、明治になって強い兵をつくるにはアメリカ人と同じ歩き方を学ぼうということになり、小学校入学時に歩き方を教育の一環として教えたのです。

牧島: そういえば何か学校で歩き方を勉強した記憶があります。

山本: もっとも明治から帯刀していませんから、これでいいと思いますが。

牧島: ペリーから咸臨へと時代をつづきますが。

山本: 来航から7年後、オランダで建造された咸臨丸はサンフランシスコへ約30日の行程で出船します。浦賀の港からです。

牧島: 船長は勝海舟ですね。

山本: この600tの船の指令は木村摂津守。船長は海舟。福沢諭吉は指令の秘書。ジョン万次郎は通訳です。更に米海軍のブルック大佐も乗船しています。どうやら交渉役では大いに力を発揮する海舟ですが、船には全く弱く、戦力にはならなかったようです。横須賀からも何人かの船員が乗り込みますが、素晴らしい働きをします。そしてこの人々は後に横須賀製鉄所から海軍工敞の建設に貢献します。

牧島: 咸臨の目的は。

山本: もちろん、通商条約批准が主たる目的ですが、日本の国威をアメリカにみせるのが大きな目標だったようです。

牧島: 太平洋を渡れるのはアメリカだけではないと。

山本: そうですね。日本の国際的能力と技術開発のシナリオをアメリカに認識させようとしたのだと思います。

牧島: 今の外交より日本の心意気という点では優れていますね。

山本: そうですね。咸臨丸はサンフランシスコ港入港のとき、今でもそうですが13発の祝砲を打ちます。これにはアメリカも驚いたようです。東洋の国が国際法を知っていたと・・・。明治時代の男のロマンを感じますね。

牧島: こうした歴史の背景をもつ浦賀が変わりますね。

山本: 残念ですが、そのようです。この地で約100年一世紀のあいだ街を支え、日本の造船力を世界に発信した住友、浦賀工場の閉鎖が決まりました。時代の流れといえばそれまでですが・・・。

牧島: しかし新世紀、新しい街づくりのテーマを皆で創りましょうよ。

山本: 咸臨に黒船、愛宕山、奉行所、灯明堂。こうした歴史遺産を後世に継承したいですね。

牧島: それだけでなく海洋開発、研究の拠点にも活用したいですね。

山本: 駅前街区の整備、ターミナルプラザ構想、交流拠点としての活用も考えたいですね。

牧島: 詔ちゃんと話していると時の流れが止まります。これからも故郷づくりに立場が変わっても共に頑張りましょう。

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