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桐蔭学園理事長・学長
鵜川昇(うかわのぼる)先生を偲んで

故 鵜川昇先生 ※桐蔭学園HPより

 桐蔭学園の理事長であり学長でもある鵜川昇先生が逝去された。

 まさに巨星が地上から天空へ翔ぶがごとくである。鵜川先生には20年来ご指導をいただいた。

 先生は多くの後輩に鵜川イズムを伝承された。私もその末弟の一人としてその哲学を伝えたいと思っている。

 政治の世界に人材がない。しっかりと人材育成しないと日本の将来は危うい。識見豊かな青年を育てることが今、求められている。

 鵜川先生の想いと私の願いが合致し、かながわ自民党政治大学の誕生のきっかけとなった。今期で11期生を迎えるまでにこのプロジェクトは進化してきている。政党のパフォーマンスと批判されることもあったが、信念と情熱で危機を乗り越え、全国のモデルとして評価されている。又この政治大学の講師の多彩さは類をみない。いずれも鵜川先生の人脈の深さ、人間性によるところが大きい。

 昭和39年は東京オリンピックの年であった。戦後の荒廃からようやく立ち直り、近代国家として再建をアピールできる場として、オリンピックは復興経済に拍車をかけた。

 国民の誰しもが不思議な高揚感で満ちていた。このテンションの高さは20世紀の奇跡とも評される日本の発展の原動力となった。

 しかし今日的視点からみれば経済大国として存在感を世界に示すことには成功したが、大切な日本の文化や精神を置き去りにして、新たな問題点を生むに到ったのである。

 それは極度の少子高齢化や自殺者の急増。犯罪の低年齢化や凶悪化。さらには偽装や偽造。いわゆる「偽」の世界の台頭。最も深刻なのは教育の低下として表面化している。

 鵜川昇先生はこの時点で将来こうした憂いが顕在化することをすでに見抜いていた。経済発展という国民の共通の認識が、いずれ近い将来大きな課題となることを推量していたのである。この洞察力こそ鵜川先生のまさに真骨頂なのであり、カリスマの原点であったのである。


昭和39年 プレハブ校舎でのHR
桐蔭学園HPより

 この年に桐蔭学園は横浜の北。小高い丘に建設された。今では想像もできないが、鉄町に誕生したのはプレハブ校舎であった。

  能力別クラスの設定は当時、日教組や進歩的文化人から強烈な反発を買った。鵜川先生はこうしたバッシングに一歩もひるむことなく、信念を貫き、全身全霊を打ち込み、学園創造に突き進んだ。「文武両道」という言葉は風化していたが、見事この言葉を現実のものとして体現した。

 スポーツ界にも大きな衝撃を与えるとともに輩出された生徒達の活動や活躍が鵜川イズムの正当性を高めた。

 「教育の原点は競争力」 鵜川先生の哲学である。

 競争はそして区別は差別という日本の教育界に今なおはびこる考え方を鵜川先生は憐れみ、一顧だにしなかった。学力も芸術力も身体能力も適正な競争によって開花させることができるし、何よりも子供達の個性を育みアイデンティティーを創造できる。

 競うことがなければ、それを見抜くこともできないし、優れた能力を開発することも不可能である。この確固たる信念はようやく一部の教育者によって理解され始めている。

 鵜川哲学が高度経済成長と両輪で稼動していたなら・・・。「もし」の世界になるので論評は難しいが、日本は違った進路をとり、世界のトップリーダーとして地球、世界感を変えていたかも知れない。しかしこの「もし」は禁句であり、後を継ぐ我々が引き継がねばならない命題である。

 数年前、鵜川先生からお言葉をいただいた。

  「君もそろそろ教壇に立ち、若い世代に今までの経験と地方分権の責務を政界と違った立場で実践するが良い」と。

 私は託された誇りと責任を熟慮し、客員教授をお引き受けした。全く小さな力であることは承知している。しかし微力ではあっても無力ではないとも思っている。与えられた課題に勇気をもって立ち向かっていこう。

 鵜川先生に恩返しができるのは信念を貫くことだ。日本の進路を次の世代の選良に託そう。鵜川イズムは永遠に不滅なのである。



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