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小柴 昌俊(こしば まさとし)さん

◆ 東京大学名誉教授・2002年ノーベル物理学賞受賞者

《小柴先生の略歴》
1926年 愛知県豊橋市にて生誕。
1939年 横須賀市諏訪尋常高等小学校(現諏訪小学校)卒業。
1944年 神奈川県立横須賀中学校(現県立横須賀高校)卒業。
1948年 旧制第一高等学校(現東京大学教育学部)卒業。
1951年 東京大学理学部物理学科卒業。
1955年 ロチェスター大学大学院修了。
1987年 東京大学名誉教授 現在に至る。
2002年ノーベル物理学賞受賞。
横須賀市名誉市民


 最近こんな言葉をよく耳にする。
「人材あれど人物なし」適正に物事に対処したり、限られた分野ですぐれた力量を発揮できたり、指令を受けた仕事は完璧にこなす人は多く存在する。
しかし全てを超越した奥行きのある人に出会うことは少ない。こんな意味だと思う。
確かに昨今の潤滑油が切れて、損か得かで行動を決めたり、パフォーマンス全盛の時代に大人物と呼べる人は稀少なのかもしれない。

 小柴昌俊先生は2002年ノーベル物理学賞を受賞した優れた物理学者であり、その分野での最高の人材である事は事実である。
しかしそれ以上に、小柴先生の人物そのものである限りない包容力と子供たちに対する愛の大きさは言葉では表現できない。

 11月に対談と講演が実現したが、その中から人間『小柴 昌俊』を紹介したい。


夢の玉子
 小柴先生は旧制横須賀中学(現県立横須賀高校)卒業で私の大先輩である。
ノーベル賞受賞後は講演で若い青年たちに「夢の玉子を育てよう」と呼びかけていた。
「夢の玉子」を心のなかに持ちつづける事が不可能と思われることも可能にする。
きっとカミオカンテや素粒子やニュートリノといっても理解できる人は少ないことを先生は知っておられ、努力する大切さを、また積み重ねる必要を説かれたのだと思う。
やればできる
 父が軍人だったので私は軍人を目指し、横須賀中学に入学しました。
ある日突然、身体が麻痺し起きることもできません。「小児麻痺」になったのでした。
動くこともできず、まるで「芋虫」のように這い回っていました。
特に女中さんに身体を拭いてもらう時など、若い男の子にとってまさに絶望的な日々でした。私は「やればできる」との信念のもと、リハビリを続け、這うように4kmの通学を2時間以上かけて毎日続けました。
ある時、道端でころび、亀のような状態でもがき町の人に助けられたこともありました。
その結果、右手に麻痺は残るものの学業を続けることができました。
受験に失敗
 旧制第1高等学校の受験に失敗し一浪しました。
入学後は寮の副委員長を務めたり、ドイツ文学のハイネを愛読する文学青年でした。
周囲の声は小柴の東大物理学科への受験は無理だ。無謀だとの評価でした。
そうしたまわりの声が大きくなればなる程、「やればできる」と心に言いきかせ難関を突破しました。
東大では「ビリ」
 大学には進みましたが、父が復員後、公職追放中で生活は苦しかった。ありとあらゆるアルバイトにかけまわりました。栄光中学の物理の講師も一年近く勤めました。
学校には週に一度ぐらいしか行けず、当然成績は「ビリ」に近かったです。
成績も悪く、右手も使えないとなれば就職もままならず、当時試験のない大学院に進みました。
わかんない。わかんない。
 当時の大学院は勉強の場というより「武者修行」の場でした。
私はできたばかりの大阪市立大学の「南部」教室に通いました。
南部先生はアメリカでも評価が高く、何故南部にノーベル賞が与えられないのかという評判でした。
当然優れた人材が集まり、活発な研究が行われていました。
劣等性の私には議論が理解できず「わかんない。わかんない。」を連発していました。
南部先生は私が文化勲章を受けたとき、物理の本を開き、わからない、わからないともだえるチンパンジーの絵を贈ってくれ、「これが当時の君だよ」と電話をくれました。
先生はよく私のことをみてくれていたんだなあと感激しました。
これならできる
 東京に戻り大学院生活のなかでも物理家にはなれないなと思っていました。院の先輩がある時、最近発明された原子核乾板を使っての研究をやりませんかと声をかけてくれました。
顕微鏡を眺めていると、今まで本の中でしか見れなかったものが私の乾板の中で見えたのです。新しい粒子も見えました。その時「ああ、これなら俺にもできる」と思ったのです。これが素粒子の実験を続けるきっかけになったのです。
ですから、ものおじせず自分でやってみることです。俺にもできると感じることが大切なのです。
アメリカに負けるな(カミオカンテ時代)
 実験を続けるには膨大な資金が必要となります。私の研究室には優秀な人材が揃っていました。ようやく文部省が予算をつけるといってくれた時、アメリカでは日本の数十倍の資本を投下して施設の実験がスタートすることになったのです。
私はどうしたらアメリカに勝つことができるか闘志がわいてきました。
お金がないので施設の球(光電子増倍管)を増やすことは不可能。それならば図体では負けても内容で追い越そうと思ったのです。
それには球の感度を上げようと研究し、それがうまくいってニュートリノをとらえることができたのです。お金がなかったからノーベル賞につながったのです。
若い素材を育てる平成基礎科学財団
 私は若い科学者、物理学者を育成する仕事にとりかかり「財団」の設立に踏み切りました。
しかし財団設立には多額のお金がかかり、とてもノーベル賞でいただいた3,500万円では足りません。
まず私自身が身を捨てて、そして家族、研究者、関係者が必死にならなければ事は成就しません。本人は口だけで犠牲にならず、他の人の力を頼りにするのでは本物ではないからです。今の世は自身は楽をして他人に苦労をおしつける風潮があります。
私は財団にすべての資金を投下し、やっと設立することができました。しかしそれでは運営はできません。将来の国を想うとき、今、国民1人1円募金をお願いしています。
お蔭様でだんだんと理解者も増え、東京都では1,200万円の協力を決めてくれました。これから全国的にこの輪が拡がることを望んでいます。


◆ 財団を応援しよう
 小柴先生の講演と対談終了後、印象深かったのは人間愛だった。
苦しい時代のことを淡々と語り、誰にでも悩みや苦しみがあることを知らせ、それを克服する勇気を持つことを呼びかけていた。そして負けじ魂を心に育てることが飛躍につながることを教えてくれている。
世を批判する訳ではないが、世相をみつめ、今足らざるところを鋭く指摘されている。
口調はあくまでも優しく、物わかりの良い人柄そのものであっても内容は意味深く、奥行きを実感する。
要は私財を投げ打たなければならぬ程、日本の人材育成プログラムは遅れているということなのである。
私達は次の世代に夢をかけ、1円1円の積み重ねを応援しようではないか。
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