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輝く星が消えた〜忘れ難き小泉芳江さんに捧ぐ〜
◆ 「小泉芳江(93) 小泉純一郎内閣総理大臣母堂逝去!!」
 お母さんの死は報道により知り得ることになった。ここ数年間の体調不良は事実であり、いつかこの日が訪れることは予見していた。しかし死と対面してみると覚悟はできていたものの寂しさは禁じ得ない。
 
◆ 「お母さんについて」
 小泉芳江さんは世界でも例がない。勿論、日本でも類をみない偉大な女性である。  父は小泉又次郎逓信大臣。勤続25年以上の代議士。夫は小泉純也国務大臣防衛庁長官。やはり25年の永年勤続。子は小泉純一郎内閣総理大臣。30歳で政界デビューは果した総理は既に25年の永年表彰を受けられた。親子3代で75年以上の政治活動を影で支えた人生そのものは驚異でもある。 

  文字どおり、戦争と改革、動乱の20世紀に直面し、歴史の数々を体験してきた生き方は生半可ではない。そしてお母さんは決して政治の表舞台に出ることのなかった存在であり、それゆえ裏舞台でのアイデンティティーは偉大なものがある。
 
◆ 「どうして大きな過失なく親子3代の代議士を助け支え育てられたのか?」
 父、又次郎は刺青大臣としてあまりにも有名である。小泉組の頭として全身刺青。後に志をたて政治家に、まさに波乱の政治生命を燃焼させるのである。最も著名なのは「普選運動」の闘士。この代名詞であろう。 白馬にまたがり、さっそうと、大きな世論を興こし普選活動を拡散し、遂に今日の選挙権の基盤を創造したのである。 

 今では20歳以上の誰もに選挙権があることは何の不思議はない。しかし男性のみ、納税者のみに選挙権が与えられていた時代を改革するには勇気ある行動が不可欠であったのは想像に難くない。まさに小泉又次郎は疾風(かぜ)の人だったのである。 

 夫、小泉純也は養子である。鹿児島生まれ「さつま隼人」を地で行く純也は芳江さんとの恋、駆け落ちまでして結ばれる。当初二人の恋愛結婚に父、又次郎は猛反対だったと聞く。しかし風雲児又次郎は政治に情熱を傾ける純也を許すのである。きっと二人の政治家に共通する熱き血潮が結婚、養子への道を拓いたのであろう。 

 純也が防衛庁長官時代「三矢事件」が国会を揺らす。防衛大学で研究されていた仮想敵国問題が議論となった。今では考えられない事である。日米安保のもと米軍と共同歩調をとる自衛隊、PKOやPKF、テロ対策、いづれも当時とは隔世の感がある。仮想敵国のシュミレーションが国家の争点、信じられない事である。 

 併せて昭和39年、東京オリンピックの開催。まさに近代日本の本格的な幕開けであった。防衛庁長官としてオリンピック運営に対処した純也は日本の中で唯一の存在である。 

 灼熱の愛、類なき祖国愛、熱狂的な純也の生き方と激しい演説は知る人の印象から決して忘れることができない。小泉純也は炎の人であった。 

 この優れた政治家二人を支え、助けたお母さんはどのような人だったのか?私は側につかえ生活を共にし、お母さんは水のような人であったと断言できる。 

 木の葉から滴となって野に落ちる水。 

 急峻な山を激しくはしる水。 

 豊満な輝きを放ち悠々と流れる水。
 静かなる清流も、すべてをのみこむ濁流も、一粒の水滴も、大河もこれすべて水である。 

 自らの大きな意志を包み込み、時と流れに添いながら、永遠の時を刻んでゆく。まさに小泉芳江・お母さんは母なる水なのです。 水は疾風にも炎にも順応しながら本質は失うことがないのです。 

 子、小泉純一郎総理は「疾風」「炎」「水」の三つの大きな要素を兼ね備えているのかも知れない。2度の総裁選出馬と敗退。このなかで育まれた教訓を見事に生かし、3度目の挑戦で総裁の座を手中にする。 

 既に6ヶ月の総理在任の時が経過した。内外の様々な出来事一つ一つがいずれも大きな課題となっている。しかし祖父、父、母から受け継れた才能と感性できっとこうした危機は乗り切るに違いない。 
 
 特に母から譲り受けた「水」の感性が最も重要な鍵となるかもしれない。
 
◆ 「お母さんの想い出バージョン」
 家族は一つの屋根のもとで暮らす。小泉家の家風の一つでもあり原点となっている。  

 中心は勿論お母さんである。家族の絆の中核はなんといっても食事にある。お母さんは現代風に言えば「料理の鉄人」である。もっとも何万円の食材を駆使した料理ではない。手際のよさとスピード、食材の有無を問題としない家庭料理の天才である。特に和食、魚料理や野菜料理は絶品であった。地の魚の煮付けの味は今でも鮮やかに蘇る。魚を食べ終わった後、熱湯を注ぎ、煮付けの風味を更に堪能したのを想いだす。鹿児島の黒豚と大根の煮物も素晴らしかった。きっと純也の故郷の味を再現したのだろう。でも鹿児島の味をはるかに上回る逸品だったに違いない。食べ物に話はつきる事がない。グレープフルーツも、からすみも最初に食べさせてくれたのはお母さんであった。才色兼備…この言葉の源はお母さんだったと信じている。影の存在、支えの存在としてのみお母さんを語るのは公正といえない。文学や芸術に対する知識、本を読み、手紙を綴る才覚とスピード、稀にみる才能であった。手紙の書き方から言葉の使い方、私はすべてをお母さんから学んだ。書生の仕事振りに言の他、注文が多かった純也先生。さしたる小言も叱責もなく過ごせたのはお母さんの手助けによるものである。

 特筆すべきはスピードであった。姿からは想像もつかない速さが印象に残っている。政治家の義務づけられた資質の一つはスピードである。次にどんな課題が起きうるか想定できない毎日であるからこそ、速さは政治家にとって重要なファクターなのである。それを身をもって示してくれたのがお母さんである。 

 お嬢さん気質…苦労の連続、心身ともに疲れる毎日、ストレスが滞る日々、そんな時にもお母さんの存在は周りに光と輝きを与えていた。時には無用の心配を吹き飛ばす明るさを放っていて人々を救ってくれた。そんな時はきっと少女時代から変わらないお嬢様気質が発揮されていのだろう。苦労を苦労に見せないこの才能は、生まれつき育ちのよさそのものだったに違いない。まれに我ままに写るときもあった。それも言葉はおかしいが、とても可愛らしく思えた。茶の間のゲームが好きで、よくお友達を招いた。又、時には友人の家を訪れた。天衣無縫で黄色い声ではしゃいでいた。天真爛漫、少女の姿を今でも想いだす。
思いやり・気配りの人…となり近所や家に出入りの業者(洗たく屋、魚屋、酒屋等)にとって、お母さんはアイドルだった。気配りを忘れず、いつも思いやり溢れる接し方をしていた。過去のつながりや、相手の考え方を常に把握していた。時には、どんなプレゼントをすれば喜ぶ、こんな事まで知っていた。亡くなった方のことも、生まれた赤ちゃんのことまでよく知っていた。訪れる人々に上等な菓子を振舞い、自らお茶をいれてもてなしてくれた。すべて頭の中に入っていた。恐るべき頭脳であった。しかし知性を包み込む感性がそこにはあった。あんなに母親らしいお母さんはいない。お母さんありがとう、安心してお眠り下さい。さようなら。

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