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猪熊 功 先生を偲んで

◆ はじめに・・・

 團伊玖磨先生の突然の訃報に続いて、猪熊先生の死去。両先生ともに私の政治活動25周年の代表発起人であり、公私ともに支えていただいた恩人であります。 まさに痛恨の極みであり、残念でなりません。ここに慎んで深く哀悼の意を表します。
 

◆ 横須賀高校秘話・・・
 猪熊先生は母校県立横須賀高校8期生。湘南信金の服部眞司理事長は4期。私は15期。3人では「横高武闘派」と称し談議に花を咲かせたものです。 猪熊先生の高校時代の武闘派振りは、まさに伝説となっていました。 忘れもしません。高校1年の時、中村先生が猪熊先生と反猪熊派、計8名の大激突の模様を実況放送風に話して呉れました。 結果はともかく1対8の構図で対立するという現実は、猪熊先生の強さの証明であったと思います。 そしてこの逸話は後輩に語り継がれているのです。
 
◆ 東京オリンピック・・・
 昭和39年10月10日、全国民の熱き想いの結晶として東京オリンピックは開催されました。 日本が戦後の混乱から脱却し、高度成長時代の幕開けとなったのがオリンピックでした。 TVが一気に普及し、都市基盤整備が進むなかで、世界の一流国入りを悲願とする国民のナショナリズムの高揚は大きなエネルギーとなっていました。 猪熊功選手はお家芸柔道の無差別級に出場し、苦戦の予想を覆し見事ゴールド・メダルに輝きます。 オリンピックにおける数々の感動のドラマは枚挙にいとまはありません。 山下選手、篠原選手、井上選手、そして柔ちゃん。 しかしどのドラマより猪熊優勝の感動は比べようありません。 ある種、国民の悲願達成といったナショナリズムが存在していたように思うのです。 今で言う週刊誌ネタ、或いはワイドショー的話題を超越した興奮がありました。 横須賀市中パレードも催行されました。オープンカーに乗った先輩の雄姿は故郷の誇りでもありました。 風吹ぶきの中、文字どおり威風堂々、胸をはった猪熊選手の瞳の輝きを終生忘れることはないでしょう。
 
◆ オリンピック後・・・
 日本のアマチュアスポーツ選手の引退後は大方淋しいものが多いのが実態です。熱狂の嵐が去ると跡に何も残らない。そんな印象を強く持ちます。日本人の特性なのでしょうか? プロスポーツ選手の引退後も決して恵まれているとは思いませんが、相撲やプロ野球の選手の活躍と比してアマチュアは無惨と言わざるを得ません。 そんななかにあって猪熊先生の活動振りは鮮かでした。 柔道界の混迷を身体をはって解決し、21世紀の青年に大きな夢を与えた「国際武道大学」の設立。武大は多くの身体能力の優れた若者を教育、育成し、評価は日増しに高まっている。 更に東海大学の教授として、桐蔭学園の理事として教育界にも積極的な貢献をしてきたのであります。 又、一方実業家としての才能を発揮し、東海建設の社長として活躍してきたのです。 後輩として、頑健な体力と、訓練による運動能力の低下防止、節制には頼もしさを感じるとともに余りにも多忙な日々には不安を持っていました。併せてその類まれな才能ゆえに多くの難題を抱えていることに危惧を憶えていました。 猪熊先生はきっと後輩のアマチュア選手の引退後の活動を心配し、自らその鏡となるべく超多忙な日々を懸命に生き抜いていたに違いありません。 それだけに猪熊先生の逝去は口惜しいのです。
 
◆ おわりに・・・
 良き先輩であり、素晴らしい友であった猪熊先生は帰らぬ人となりました。 辛い時も、悲しい時も苦悩は胸に秘め、明るい希望の太陽を自ら演出して、周りの人達に勇気を与え続けてくれた猪熊イズムは私は継承していきます。 男らしく生きたい! いまの日本には死語となった心意気かも知れない。 猪熊美学は永遠に光り輝くものなのです。

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