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阿部 志郎 (あべ しろう) さん
◆ 横須賀基督教社会館館長 神奈川県立福祉大学初代学長予定


  阿部志郎先生の弁舌のさわやかさはつとに有名。 よどみのない口調のみならず、明確な論旨、鋭い切り口、豊かな体験からの説得。しかし何よりも年齢を感じさせない声の張りは驚くべきものがある。ピンと背筋を伸ばし、情熱的な活動力は市民の憧れでもあり、高い求心力で人の輪の広がりは、限りないように見える。私自身、公私共に良き相談相手でもあり、最も敬愛する先輩の一人でもある。

  阿部志郎先生との対話の中で、会話が弾む、話が広がる、こんな通常のコミュニケーションより、先生の謎に迫る事が私の使命と考えていた。「何故こんなに話が上手なのか」「何故何時までも若さを保っていられるのか」「何故数多くの仕事がこなせるのか」「何故多くの人々が集うのか」「何故何時までも美しくいられるのか」先生を知る人誰もが、疑問に思うこと。この解明に少しでも役に立てればと思っている。

牧島: 今日は先生の謎に迫る会話を進めていきたいと思います。

阿部: 私の人生に謎などありませんよ。

牧島: いや、先生を知る人は誰もが、魅力ある話し方や、エネルギッシュな活動の原点は、いったい何処にあるのかと、敬意と共に不思議に思っています。

阿部: そういった点からすれば、人生のおり節に素晴らしい方々との出会いがあり、その人達によって運命的に方向が定まってきたような気がします。

牧島: では、その方々がどんな影響を先生に与えられたのか、是非お聞かせ下さい。
◆ 米山 梅吉
阿部: 私は、大正15年東京青山で、後に青山学院長を勤める牧師の子供として生を受けました。青山脳病院の隣にある青南小学校から青山学院中等部、高等部に進み、一橋大学に進みます。そして19歳、いよいよ戦争は厳しさを増します。志願し、兵役検査の結果甲種幹部候補生として軍に入りました。私の多くの友人は帰らぬ人となり、悲しい想いでいっぱいです。終戦後は、「死から平和」への課題が身体中駆け巡り半年間悩みぬきました。図書館にこもり考えた末、一橋大学に復学し実業の世界に進もうと意を決したのです。そこで巡り会った方が米山梅吉さんです。米山梅吉さんはロータリークラブで支援している米山財団の創始者であり、大三井グループの番頭と言われた方です。米山さんは退職金(当時の100万円)を投じ、後に青山学院小学校となる私学の幼稚園と小学校を創設されました。実業界で得た所得を投げ出し、人材育成の基礎となる学校を創る。そして、小学校校長として人生の最後を全うする。こうした姿に感銘と憧れを憶えたのです。

牧島: 私もロータリアンとして米山財団には関係をしていますが、改めて米山さんの偉業をお聞きし、緩みのない人生、生き方を学びました。
 
◆ 井深 八重
阿部: マタイ25章40節にこんな言葉があります。「もっとも小さきもの、一人にしたことは私にしたことと同じである」井深八重さんはこの聖書の一節に自らの人生全てをかけた方だと思います。御殿場にあった「ハンセン病」の療養所で看護婦として奉職しておられました。井深さんはナイチンゲール賞の第一号としてその業績を称えられています。そして高松宮殿下の特別表彰の前日、93歳で生涯を閉じます。献身的で劇的な人生を歩まれた井深さんは、病院、療護、看護に対する愛を私達に、与えてくれた方です。

牧島: 井深さんのお話は聞いたことがあります。先生の現在のお立場を考えると大きなインパクトのあった方ですね。
 
◆ トムソン夫妻
阿部: 私は社会事業への道を目指し渡米します。日本は敗戦後で、社会事業そのものが存在していませんでした。アメリカに渡り将来の日本の為に学ばねばならないと信じ、ニューヨークの施設で修行しました。そこで出会ったトムソン夫妻は、牧師であり、青森、長崎で伝道に携わっていた日本通、親日家でした。戦争の為アメリカ(シアトル)に戻り、牧師の傍らアイダホにあった、日本人収容所の世話をしていました。日本人にとって恩人でもあります。このご夫妻と触れ合うことにより、アメリカの地で福祉や医療、教育を含めた社会学を学ぶことができたのは幸運でした。

牧島: 当時アメリカに渡ることすら難しいときに、2年間学ばれ、優れた方々と交流されたのは、素晴らしいことですね。
 
◆ デッカー司令官
阿部: 敗戦後はアメリカの統治の下に、日本は復興を目指していきます。占領下では、今日では考えられないような様々な出来事が起きます。特に私にとっても横須賀にとっても、忘れられないのは横須賀駐留軍司令官であった、デッカー少将です。デッカーさんは時にはマッカーサーに睨まれたり、怒られたりしたそうですが横須賀の街の再生に大きな足跡を残してくれました。デッカー司令官は、日本の復興の原動力は教育と医療と福祉にあると考えました。50年以上も前(1946年)にこうした見識を持っておられたことも驚異ですし、その為に教育の視点から栄光,清泉、横須賀学院の為に占領地を提供しました。更に医療施設として、ヨゼフ病院、衣笠病院の設立にも尽力してくれ、福祉の視点からキリスト教社会館を設立してくれたのです。これらの施設が今尚市民生活に大きな役割を果していることを思う時、その先見性に改めて感謝しなければならないでしょうね。

牧島: デッカー司令官の業績は本市にとっても大きかったと思います。こうした素晴らしい話もだんだん風化してきており残念です。

阿部: そのとおりですね。

阿部: 私は、1947年アメリカから貨物船に乗り帰国します。帰国後は明治学院大学の助教授として教壇にたっていました。ところがトムソン夫妻と運命的な再会をします。横須賀に来るよう勧められたのです。そして今日まで横須賀で汗を流せて頂いています。

牧島: まさに歴史に人ありという言葉がそのまま行き続けているような気がします。又先生もそうした運命を、与えられたものとしてでなく運命的なものとして受けとめ、自らの道を拓かれ、今日の姿へ創り上げられた。

阿部: 人と人のふれあい、素晴らしい人達との出会いが今の私を支えてくれているのだと思いますよ。

牧島: 最後になりましたが来春に開校する県立4年制大学の初代学長就任ありがとうございました。本市に開校する以上市民から学長をと念願しておりましたので大変うれしく思います。

阿部: 牧島さんも誘致から今日迄一生懸命努力され敬意を表します。牧島さんの尽力が開校の礎になったことは、多くの市民の知るところです。これからも宜しくお願いしますね。

牧島: 先生の学長としての理念をお聞かせ下さい。

阿部: 私は二つの大きな課題を考えています。1つは「地域と共に生きる」ということです。この大学は地域の方々の知恵とエネルギーと共に建学して行きたいと考えています。オープンスペースも作り地域の方々との交流を積極的に進めていきます。2つ目には福祉の最大の問題である縦割りの排除です。行政的に保険、医療、福祉、介護等、セクト的であり行政対応も縦割りと指摘せざるを得ません。これらは私流に言えば全て社会学であり、共に深いかかわりがあるのです。又、人々の暮らしの中でも少児、学童、老人、障害等、ここでも縦割りが存在しています。こうしたたて組織を払拭しなければならないと思っています。ですから社会学の総合課を創設し、マルチ型人材の育成に力点を置きたいと考えています。英語で言えばこの大学の使命は「ヒューマン・サービス」と言えると思います。生活学習の一環としてこの大学が存在する。当たり前のことですがなかなか難しい問題に前向きに取り組んでいきます。

牧島: 貴重なお話しをありがとうございました。大学に賭ける熱い想いもお聞かせいただき、感動しました。永遠の青年として頑張って下さい。
阿部: こちらこそありがとうございました。私は「ヒューマン・サービス」とは人間に仕えること。「専門家である前に、人間であれ」と思っています。春が待ち遠しいですね。

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