牧島功事務所

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牧島功プロフィール

昭和19年 横須賀生まれ
昭和38年 県立横須賀高校卒
昭和42年 明治大学商学部卒
昭和42年~49年 小泉純也・純一郎秘書
昭和50年 横須賀市議会議員(3期)
昭和62年~ 神奈川県議会議員(7期)
平成17年 神奈川県議会議長
現在 政治活動以外でも、桐蔭横浜大学客員教授・コラムニスト
エッセイスト・作詞家として幅広く活動中。書籍などの紹介はこちら

政治家を志した理由

小泉純也の存在

学生時代、縁あって現小泉純一郎代議士(神奈川11区:横須賀市、三浦市)の父、防衛庁長官を歴任した純也先生の選挙応援を2回体験する。 純也先生の人々を熱狂させるカリスマ的活動と 選挙戦の死を覚悟した戦いの興奮に心奪われる。 同時に人間小泉純也に傾倒し秘書になる決意を固める。 ここから全てが始まる。

二世でなくても議員になれる

中選挙時代から小選挙区に変わった今、自民党の50%は、二世・三世時代。純也先生も二世、純一郎代議士は三世。世襲を否定する訳ではないが、本当にそれでいいのか。 優れた能力や不思議なタレント性を持っていても選挙に勝たなきゃ議員になれない。 これが現実。こんな世界に貧乏青年がチャレンジしたらどうなるか?自分の力でやってみよう。政治家を目指した最大の理由です。

政治家のバランス感覚

人間にとって一番平等なのは時間。 だからこそ「時は金なり」であり「時は命」なのです。この24時間を1/3づつ分割できる能力が政治家に最も必要なのです。 1/3は政治理念や政策の勉強に使いましょう。ともかく学ばない政治家が多すぎます。 新聞と歴史小説しか読まない人を排除しなければなりません。自分の信念ぐらい本にしたらどうかと思います。 1/3は党や議会活動を真剣に取り組もう。 議会には欠席、党活動には形と役職だけ。こんな輩が多すぎます。 1/3は選挙活動を。 選挙活動や後援会活動がもっとも身近な経済の動向や有権者のニーズをつかめるのです。 忙しいふりをして人の話を聞かない人が多すぎます。24時間、365日営業の政治家を目指すのが私の信条です。それを他人に求めず自らの行動で表現する為に政治家を志したのです。

マッキーの歩んだ道 ~牧島功の経歴~

出生から学生時代

昭19(1944)10月18日

横須賀市にて生まれる。父は長野県、農家の二男坊。海軍に入隊、横須賀に配属。 母と結婚、長男として敗戦の 色濃い中、元気に誕生する。

昭26(1951)

市立山崎小学校に入学。学業はまずまず。

昭32(1957)

市立馬堀中学校に入学。埋めたて前の馬堀海岸が通学路。夏の海の家の賑わいがなつかしい。三年のとき埋め立てが開始される。50人1クラス、10組。馬掘中学全体で35クラスの巨大マンモス校で学ぶ。1クラス30人位が望ましい等論議されているが、大クラスは必ずしも悪ではないと確信している。

昭35(1960)

県立横須賀高校に進学。美術部と野球部に籍を置き、文武両道を目指すも共に素質なく中途半端に終わる。勉強より、興味あるものに出会い勉学も挫折。なんとも実りなき高校生活。得たものは宝、友人の輪は際限なく広がる。

昭38(1963)

高校時代最後、活況に湧く証券界のニュースに接し、証券マンを夢見て明治大学商学部に進学。あわせて明治大学横須賀会の活動にも参加する。学校へ行く回数は定期の元が取れないくらい。 もっぱら市内スカ会の活動に専念する。第六回のマンドリン・コンサートを仕切る。その後このコンサートは後輩達の手によって歴史を刻み、今年は第41回を数える。現在は明大横須賀会の会長として学生と一緒に駿台spiritを燈している。

秘書時代

昭42(1964)

学生時代体験した選挙活動。衆議院議員 小泉純也 先生(現純一郎代議士の父)の生き様に共感。卒業後、秘書となる。いまどきの秘書とは、大違い。日常の作業や運転、雑用一般を体験。政治の根幹となる人間模様の勉強。当時学んだ全てのことが今の自分を支えてくれている。

昭44(1966)

小泉純也先生 急逝。敬愛する純也先生がガンで急逝。人生の希望を失うような大ショックを受ける。その後、ロンドンから帰国した純一郎氏が弔い合戦に出馬。懸命の努力をするも敗戦。破れた戦の厳しさを骨のずいまで感じとる。次の選挙の準備に奔走。

昭47(1969)

小泉純一郎代議士誕生。苦節を乗り越え、念願の当選を果たす。小泉事務所を支え、活動を展開する。

小泉事務所から自立し、自ら政治家を目指す。

市議会議員時代

昭50(1972)

横須賀市議選に挑戦。30歳、独身で出馬。定員48人、立候補72人史上最大の大混戦。大方の予想を裏切り、当選を果たす。本人は自身満々で出馬するも、”地バン・看バン・カバン”三バンなしの選挙は通用しないとの風評のなかでの勝利。街頭演説の数々が今だ記憶に新しい。

県会議員時代と参院挑戦

昭62(1984)

三期連続。毎回の選挙で得票をのばし、いよいよ県議会に出馬を決意。自民党公認がとれず、四面楚歌の戦となった。 街を二分するすさまじい選挙戦を体験する。 血で血を洗うと評されたこの戦いも無事に勝ち抜く。 42歳、秘書体験のみの全く無名の男が この戦いに勝つ事が出来たのは奇跡と言われた。 その後、自民党所属の県議として、 文字通り三浦半島を代表する地方議員 の誇りを忘れず、活動を続ける。この間、地方分権にかける情熱の集大成「マリン文化都市連邦」、 「税に対する鈍敏感」を発表。大きな話題をよぶ。

平成10(1998)

三期務めた県議から参議院神奈川選挙区から立候補、敗れる。 当時、橋本内閣は衆院で過半数を得るも参院では、-8議席。 波に乗り、国民的人気も高かった橋龍は 東京、神奈川、大阪、兵庫、愛知県といった大都市で 複数候補の擁立を決意。 選挙の後半、経済政策、税金問題で橋本政権は批判をあび、 都市では1議席も議席を取れず惨敗した。 その結果-21議席の参院での結果から 今日の連立政権の道を巡ることになった。

県議会議長就任まで

平成11(1999)

参院選敗北のあと、自らの人生をかえりみて多くの方々と相談し、再度県議選に出馬を決意する。批判、批難、いわれなき中傷が渦巻く中、政治の原点に立ち返り「0からの出発」をスローガンに早朝駅頭キャンペーンを決意し実行する。過去7回の選挙の全てを白紙に戻しての戦いで、トップ当選を果たす。もう一度、自分に課せられた責任の重さをかみしめ政治活動を展開する。

平成12(2000)

政治活動25年、1/4世紀を総括しさらなる飛躍を期し、「25周年感謝の集い」を開催する。この歴史的な瞬を境に新世紀に向け、新たな出発を決意する。

平成17(2005)

第98代神奈川県議会議長に就任。